ベイエリアの歴史(19) – 日系アメリカ人の戦い

マンサナー収容所 つらい話が続きますが、日系人収容所についてもう一回。

このとき「除外区域からの退去」を義務付けられたのは、「1/16まで」、つまり曾祖父母の中に一人日本人がいる者までが対象でした。よくもそんなところまで調べたものです。

全米10ヶ所のうち、人数で最大のものはカリフォルニア州トゥール・レイク(オレゴンとの州境)で、最大19,000人が収容されていました。ちなみに、現在のトゥール・レイクの町の人口は1000人です。そして、カリフォルニア州にあったもう一つのものが、有名なマンサナー(中央平原のシエラネバダに近いあたり)です。収容人数は最大11,000人ほどで、10ヶ所の中では中ぐらいの規模でしたが、写真を含む記録が最もよく残っているために、日系人収容所に関する資料としてマンサナーが使われることが多くなっています。マンサナーは、どうやら現在は「町」としては消滅しているようです。(アメリカでは、「郵便局の有無」により町として住所に記載されるかどうかが決まります。マンサナーの郵便局は1914年にすでに閉鎖されていました。)ちなみに、一番小さかった収容所はコロラド州グラナダで、7,300人でした。

収容所といっても、例えばナチのユダヤ人収容所のようなひどい扱いがあったわけではなく、収容所の中では家族単位での普通の暮らしが行われていました。ただ普通とはいえ、建物はすべて急ごしらえのバラックで、敷地から出ることは許されず、監視の兵士の銃口が常に内側に向けられていました。日本ほどではないとはいえ、戦時のため食料は不足気味の時期で、収容者たちは敷地内の荒れ地を開墾して、野菜などを作っていました。砂漠の中でもなんとか灌漑をうまくやっていたようで、「武士の農法」の面目躍如です。1万人もいれば、その中に大工や医者も教師もいたわけで、かなり「自給自足のコミュニティ」であったと思われます。

外からの情報が遮断されていたことにより、収容者は精神的に不安定な状況に追いやられました。収容所では、「米国に忠誠を誓って日本の天皇を相手に戦う意思があるか」という踏み絵のような調査票を書かされましたが、これにどう答えたらどういうことになるのか、という判断がつかず、混乱が生じました。多くの人はYES、米国に忠誠を誓う、という答を書きましたが、当時は差別的な法律により、日系移民一世は米国国籍を取ることができなかったため、日本の国籍を捨てても米国国籍が取れる保証がなく、YESと書けなかった人達もいました。いつここから出られるのか、一生出られないのか、という不安もあり、収容所の中でYES派とNO派の間での軋轢もありました。こうした分裂が、戦後もかなり日系人コミュニティに傷を残しました。

現在残るマンサナー収容所の写真の多くは、Toyo Miyatakeという日系人写真家の手によるものです。彼は収容の際にレンズとフィルムを隠し持ってはいり、手作りでカメラを作って収容所の写真を撮りました。最初は隠れて撮っていて、収容所長に見つかったのですが、最終的には所長も写真撮影を許可しました。

終戦後、収容所は閉鎖され日系人たちは元の住まいに戻りましたが、資産は奪われており、厳しい差別が残る中でゼロからの再出発となりました。

現在、サンノゼ空港の名前となっている政治家のノーマン・ミネタは、幼少時にワイオミングにあった収容所で暮らしました。当時、日系人は政治的に影響を持っていなかったために、このような差別的な法律がまかり通ってしまったので、戦後日系人は議員を州議会や連邦議会に送り込んで活動しています。また、ロックグループ「フォート・マイナー」のマイク・シノダは、「ケンジ」という曲で彼の家族のマンサナー体験を歌っています。

Go for Broke

第二次世界大戦中の日系人の悲劇としてもう一つ有名なものが、「442連隊戦闘団 The 442nd Regimental Combat Team」です。少数の指揮官を除く大半が日系人志願兵で構成された部隊でした。(この他に、第百歩兵大隊というものもありました。)

米国政府側としては、日本との駆け引きの一つとして「米国人として戦う日系人」部隊を作ろうという動機があったようで、一方志願兵たちは、「自分が米国に忠誠を誓うことで、家族や日系人に対する差別的環境から救いたい」と考えていました。多くはハワイからの志願兵で、ハワイでは定員1500人に対し、6倍以上の志願があり、定員をさらに1000人増やしたとされています。カリフォルニアなどの収容所からも、800人ほどが志願しました。

442連隊はヨーロッパの最前線に送り込まれ、イタリア・フランスを転戦して数々の戦功を挙げます。そして1944年10月、ドイツとの国境に近いフランス東部で、テキサス出身の隊がドイツ軍に包囲されているのを救出する命令が出ました。戦況は厳しく、ほとんど実行不可能と思われた作戦でしたが、442部隊はドイツ軍がボージュの森で待ち構えているところを血路を開いて強行突破し、ついにテキサス隊救出に成功しました。テキサス隊の211人を助けるために、442部隊は216人が戦死し、600人以上が手足を失うなどの重傷を負いました。

442部隊は、欧州戦線での全戦闘期間中、のべ死傷者率は31%であったとされます。日系アメリカ人が「武士的」であるという、最も大きな象徴です。

この部隊は、テキサス隊以外でも、ローマ攻略やダッハウのユダヤ人収容所の解放など、種々の戦功を挙げており、アメリカ合衆国史上最も多くの勲章を受けたとして知られていますが、「日系人差別」から、戦功の一部は公表されなかったり、勲章もあえて低い位のものを与えられたりしていました。後の日系人自身による名誉回復の努力により、勲功が事後アップグレードされた例が多くあります。

この部隊のモットーは「Go for broke」というもので、ハワイで賭け事をするときに有り金全部をかけて勝負を張るときの「当たって砕けろ」的な口語表現でした。テキサス隊の事件は何度か映画化されており、1951年のものがこのタイトルでした。私は2006年のインディ映画「Only the Brave(邦題:ザ・ブレイブ・ウォー)」の監督・主演レーン・ニシカワが資金調達のためにやっていた試写会に行ったことがあります。彼は自身の足でベイエリアや南カリフォルニアをまわり、主に日系人を対象に試写会をして資金を集めていました。もともとニシカワ氏が舞台出身で、なおかつ低予算ですので、スペクタクルもCGもなく、舞台的な映画でしたが、それがかえって市街戦や暗い森の中での緊張をリアルに表現していて、とても印象に残っています。そんな低予算でありながら、パット・モリタやジェイソン・スコット・リーなど大物日系・アジア系俳優が出てくれて、製作スタッフも日系を中心とするアジア系が手弁当で結集した、ということを、ニシカワ監督が挨拶で語っていました。

日系人の「戦い」は、いろいろな分野で今も続いているのですね。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、IMDb、Only The Braveウェブサイト